日本国内における金箔製造の起源や金沢でいつの時代から金箔製造が始まったのか詳細は定かではありませんが、金沢金箔の起源は加賀藩初代藩主・前田利家公が文禄2年(1593年)に金箔の製造を命じたのが始まりとされています。

金沢と金箔

元禄9年(1696年)に幕府は江戸に「箔座」を設け、全国の金銀箔類の製造・販売を統制しました。
この「箔打ち禁止令」により江戸、京都以外の土地での金箔製造が禁止されることとなりました。

しかし、加賀藩では細工所の職人たちにより隠れて密かに箔打ちが続けられていたそうです。

文化5年(1808年)に金沢城の二の丸が全焼します。
焼失した金沢城・二の丸御殿を再興するため、多量の金箔が必要となり、京都より熟練した箔打ち職人が呼び寄せられました。
これを契機に金沢の人たちの間に製箔業を確立しようという動きがおこりますが、幕府は再三にわたり「箔打ち禁止令」を出し統制していきます。

やがて明治維新による江戸幕府の崩壊によって箔の統制が解除されると金沢の金箔の生産は増加していきます。

江戸幕府の崩壊による統制解除、そして江戸での金箔製造が途絶えたことで、金沢箔の地位が高まり現在に至りました。

加賀藩で金箔が発展した3つのポイント

様々な伝統工芸がある中で加賀藩で金箔が発展したのは3つのポイントがあると言われています。

ひとつは加賀藩前田家の文化振興策。
加賀藩前田家は様々な伝統工芸や美術工芸に力を注ぎ手厚く保護してきました。
前田利家公の趣味趣向だったのかどうかは知る由はありませんが前田家の意向が大きく影響したことは事実でしょう。

ふたつめは箔の製造に適した気候風土。
湿度が高い金沢の気候が紙仕込みの作業に適していると言われています。
そして箔打ち紙の仕込みに適した金沢のやわらかな軟質の水質があげられます。

そして最後に、江戸幕府の厳しい統制下で磨かれ続けた加賀藩の箔打ち職人たちの粘り強い気質にあると言えるでしょう。

金箔の製造工程

金箔づくりは、金に少量の銀と銅を加え、型に流し込み約1,300度に熱し合金し、金属を極限まで薄く引延ばします。その厚さは約10,000の1mm~3mmとも言われており、1gで畳2畳分ほどの大きさになります。

金箔の製造工程は澄職人が行う「延金」「上澄」と箔職人が行う「箔打」がありますが、ここでは金箔が出来上がるまでのおおよその流れについて説明します。

1. 金合わせ

金に少量の銀と銅を加え、型に流し込み約1,300度に熱して板状の金合金を作ります。

2. 延金

金合金を圧延機で100分の3mmまで帯状に延ばし、6cm角に切ります。

3. 澄打ち

延金を澄打ち用の紙の間に挟み、小兵(こっぺ)→荒金(あらがね)→小重(こじゅう)→大重(おおじゅう)という4段階に分けて打ち延ばします。この工程により約100分の3mmだった延金は、約1,000分の1mmまでの厚さに打ち延ばされ、上澄(うわずみ)と呼ばれるものになります

4. 仕立て

約1,000分の3mmにまで打ち延ばした上澄を約20cm角に裁断し三つ折りにします。その後、上澄は箔職人へ引き継がれます。

5. 引き入れ

上澄を12枚ほどの小片に切り分け、一枚一枚箔打ち用の紙に挟みます。

6. 打ち前

小片を挟んだ箔打ち用の紙を束ねて固定し、箔打機で打ちます。この打ち延ばした箔は小間(こま)と言われ、そのまま箔打紙に移され、約10,000分の1mmまで箔を叩き延ばします。

7. 抜き仕事

打ち上がった箔を品質ごとに選別して、箔打紙から100枚で1冊からなる広物帳(ひろものちょう)に移し替えます。

8. 箔移し

広物帳に移し替えられた箔は竹枠で規定サイズの正方形に切り揃えられます。切り揃えられた箔は切り紙の上に移し替えられ、100枚を1セットとします。これらの工程を経て、基本的には100枚単位で販売されています。

写真提供:金沢市 / 画像引用元:石川県箔工業協同組合